実は先週(9/6~9/12)は調子が悪く、動画を撮影したり編集してYouTubeにアップすることができませんでした。
これ、Twitterで報告するのにかなり勇気がいりました。
うつ病は認知されてきたけど
うつ病はかなり認知がすすんできたなと思います。
鬱病になった経験を描いたマンガがTwitterで流れてきたりもします。
適応障害やうつで長期間社会活動をおやすみする人への理解は、10年前よりずっとひろまってきたと思います。ふつうの「病気」という扱いになった。
甘えだとか心が弱いとかいうほうが「情報弱者」であり、非難されるべきであり、理不尽な環境に置かれたりストレスに晒されたら病気になるのは当たり前、という風潮になった。
「うつ病って報告したのに上司に甘えだと言われた」みたいな体験談をうまくTwitterに投稿すると、たぶん2万RTくらいになって同情のリプライが溢れるだろう。
これで、ほんとうに大丈夫だろうか?
このままうつ病の認知度が上がっていけば、「様々な事情でパフォーマンスに波がある」者が暮らしやすい社会になるだろうか?
「うつ病になったことがあります。今は治りました」の違和感
ぼくがうつ病だったことを、他の人のYouTube動画にコメントを書き込んだことがある。
- 僕もうつ病になったことがあり、動画の内容に共感した
- 応援している
というようなものである。
このとき、僕はなんとなく「僕もうつ病になったことがあります。(今は元気です。)」と書いた。
その動画には、他にも「メンタルを崩したことがあった(今は元気です)ので、気持ちが分かります」というようなコメントがついた。
ぼくは「おや」と思った。
この間髪入れずに「今は元気です」と付け加えてしまうのは、何を怖れているのだろうか。
「メンタルの調子によってパフォーマンスが左右されるようなめんどくさいやつ(または未熟者)」と思われるのが怖い
怖れているものはいくつかある。
「どんなに健康な人でも、ストレスに晒されればうつ病になることはあるが、普通の人なら環境を変えればちゃんと治って、以後は健康に暮らせる」とか、
「まっとうな人を全うでない環境に置けば病気になるが、全うな環境下におけばちゃんと治る」とかいうような。
皇后陛下だって、
「あんな優秀な人を、狭い皇室に連れてきて、周りから国民全体から産めよ増えよみたいなこと言ってストレスを与えれば適応障害にもなるというもの。
令和になって皇后陛下になられて、悠々と活躍されるようになったら治ったではないか」
というような。
だから、「なぜか分からないけど、小さい鬱状態を繰り返してしまう人」は、結局のところいまでも「それはさすがに本人のメンタルが弱いだけなんじゃないの?」と思われているんじゃないだろうか、とか。
怖れている自分に気づいたからこそ、言いづらい雰囲気を作らないために、あえて言った
1週間YouTubeでの活動ができなかったことだって、「頭が痛くて」と言ったっていい。
そうしたら、メンタルのことは言わないで済む。
実際、8月上旬に頭が痛かったときは素直にそう言った。
今回も頭痛と言ったってよかった。小さな嘘だ。
だけど、もし今回格好をつけて嘘をついてしまったら、(この「格好をつけて」というのもそうだ。なぜ「頭痛でYouTubeができない」より「プチ鬱でYouTubeができない」をかっこ悪いと思うのだろうか?)
世の中に「『メンタルが整わなくて身体が動かない』という休みはあってもいい」というメッセージが一つ少なくなってしまう。
まだまだ社会での肩身は狭いかもしれない。
大きな会社で「今日は精神的に調子が整わないんで休みます」と言ったら「なんだそれ」と怒られてしまうと思う。
だけど、きっと、「体調のように整わないことがあり、体調が悪い時のように、仕事ができないことがある」ということが認知される社会になってほしい。
ひとつずつ、すこしずつ。