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“いかなる条件下でも体罰はNG派”の意見

ここ数日、体罰についての報道や意見を多く見ます。

私は『体罰はいかなる条件でもダメ』で、同じ意見を見かけなかったので、今日はこれを書きます。

特定の条件下では体罰は仕方ない/容認/推奨派の存在

特定の条件下では体罰を認めるという意見の人もいます。

このあたりが、私がよく目にする意見です。

昨晩ウエンツ瑛士さんが「信頼関係があるならOK」と言ったそうです。

私は、

と思っています。

上に挙げた5つのどの場合にも、「~~の理由で、それでも体罰はダメだ」と言うこともできますが、
それよりも、『私がどのように自分自身や他人に接していきたいか』を書きたいです。

体罰にせよ怒鳴るにせよ、叱る側の衝動が含まれている

当然のことですが、私は

をしたことがあります。叱られるときに手をあげられたことはありますし、電車やスーパーなどで、なかなか言うことをきかず叩かれている子どもを見たことがあります。

振り返ると、『怒鳴る』『手や足が出る』場合はいずれも、その中に『叱る側』の感情や衝動が含まれています。

『100%相手のことを思って怒鳴る・殴る蹴る』という場面に出くわしたことは一度もありません。

「怒鳴ることはマウンティング」と考えるアドラー心理学に出会ってとても納得したので、よかったら読んでみてほしいです。

私は、自分自身と戦い続けたい

もちろん、生きていればイラっとすることはあります。
マウンティングされて、しかえしたこともあります。
人を怒鳴ってしまったこともあります。

人を殴ったことは記憶にはありませんが、もしかしたら今後殴ることもあるかもしれません。

母(因みに私は母に殴られたことはありません。父には殴られたことがあります)に
「私はもし子供ができても、殴らずに子育てをしたい」
と言ったことがあります。母には
「でもね、親も親で必死だから、『気づいたら手が出ていた』ということもあるみたいよ」
と言われました。
もしかすると、親になったら考えが変わってしまうのかもしれません。

でも、私は衝動や感情のままに手をあげてしまうことを、仕方のないことだと思いたくはありません。怒鳴ることも、です。

冷静になって、お話しして解決していきたいのです。

体罰を認めることは、私にとっては『衝動に負けて感情的になったりしない自分』をあきらめてしまうようで、嫌なのです。

 

 

私は、アドラー心理学の影響かもしれませんが、他人に”べき論”を使うのは嫌なので、

主観的になぜ体罰がダメだと思うかを書いてみました。

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