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学習時間をマイクラに吸われながら考えたこと。人はなぜゲーム欲に負けるのか。前編

皆さんこんにちは。
学習コンサルタントをしているかおるんです。
日頃から仕事に活かすべく何かしらの学習をするようにしているのですが、ここ2週間はすっかりマイクラ(Minecraft。壮大なワールドの中でブロック遊びができるゲーム)にハマり、ゲームをしたい気持ちに負けて、学習がおろそかになっていました。

なぜ人は仕事や勉強などの「しなければならないこと」よりもゲームをしたくなってしまうのでしょうか。
どうやったらその欲を断ち切ることができるのでしょうか。

今日はそのお話をしたいと思います。

今回起きた事象を観察する:動機の薄い、分量の多い英文の暗記

今学習を進めているのは英語です。
1年以上前に英検準一級を取ってからしばらく英語の勉強しておらず英語力がだんだん下がってきたと感じていました。
また「何かしらの英文を丸暗記することで総合的な英語力を上げる」という勉強法は一度も今までに試した事がありません。
このことから、今年の3月から約2ヶ月の間 Duo 3.0と言う英単語帳を持ち歩き、電車内で眺めたり文を空で言ってみたりしてきました。

家にいるときにも、本当は10分でも時間を見つけて毎日単語帳を開いたほうが良いのですが、ここ最近はついついマイクラを開いてしまっていました。

学習の進みがあまり良くないことで最近は自己肯定感の低下を招き、ようやくマイクラにかまけてしまった自分を省みることになりました。

重要な点は主に二つあります。
一つ目は Duo 3.0と言う英単語帳のボリュームの多さ
二つ目は学習すなわち勉強とゲームの性質の違いです。

一つ目についてはざっくりお話しします。
簡単にいうと、この単語帳に登場する文を全て暗記するのは思ったより量が多く、大変なことでした。しっかりと動機づけをしていないと難しい量だと感じました。
動機づけのやり方については別の機会にお話ししようと思っています。

ここからは二つ目、すなわち学習とゲームの違いについてお話ししていきます。
我々がつい負けてしまいがちな「ゲーム」を定義して、学習との性質を比較し、ついついゲームをしてしまいがちになる理由を考えます。
そしてその欲に負けずに学習などの「やらなければならないこと」をしっかりやっていくコツを考えていきます。

ゲームを「誰かが勝ち負け・進捗・クリア条件と、それに見合う報酬を併せてパッケージ化したもの」と定義します

この記事の中では、ゲームを「誰かが勝ち負け・進捗・クリア条件と、それに見合う報酬を併せてパッケージ化したもの」と定義します。
Wikipedia や辞書を紐解いてみると、ゲームを自分と異なる他者と一緒にプレイするものとして定義しているものが多いように感じます。
しかしわれわれがつい欲に負けてしまいがちな「ゲーム」というと、 スマホのアプリ(いわゆるソシャゲ)や一人でプレイするSwitchやPlayStation等のソフトも含まれます。
これらを含めてゲームというものを論じるには、「誰かが勝ち負け・進捗・クリア条件と、それに見合う報酬を併せてパッケージ化したもの」と定義するのが良いと思いました。
ここでいう「誰か」にはもちろん自分自身や身近な友達も含まれます。

この定義を使うと、「ゲーム」には、小学生の時にやっていたドッチボールや鬼ごっこ、トランプのババ抜きや神経衰弱、 少し前に流行った「はぁって言うゲーム」などのボードゲーム、そして先程も書いたスマホのアプリゲームやコンシューマーゲームソフトなどが含まれます。

ドッジボールや鬼ごっこやトランプゲームには明確に報酬が定義されているわけではありませんが、 友達と盛り上がる時間や外を走り回る楽しさ、良いプレーをした時に友達から賞賛してもらうことなどが報酬になっています。
プレイするたびにこの報酬を確認しているわけではありませんが、誰もがこの報酬を思い描いているからこそ、友達にゲームに誘われた時に参加したくなるのだと思います。

ゲームと学習の性質の違い

ゲームについて定義したところで、これと学習を比べていきたいと思います。
Duo 3.0の英文を暗記していて感じたことは、「覚えている英文の数がなかなか増えない」ということでした。
分かってはいるのですが、覚えたはずの英文でも、翌日になれば半分くらいは忘れてしまっています。

かたやマイクラでは、昨日4個見つけたブロックは、今日もゲームを開けばチェストの中にちゃんと4つ入っていて使うことができます。

マイクラでは30分もあれば、ブロックを探すとか農作業で収穫するとか何か必ずできることがあり、それをすべて次に遊ぶ時に生かすことができます。
それに比べて学習は、30分やったくらいでは、目に見えて何かを学んだとかできるようになった実感はないし、
何かを覚えられたという実感は、毎日の学習を進めた先にしかありません。
「昨日勉強して得られた実感(報酬) を思い出して、今日も報酬を得るために学習する」というのは難しいと思います。

人間の脳みそも、ただの「動物の臓器」である

ここで一つ思い出しておきたいことがあります。
それは、人間の脳みそもただの動物の一つの臓器であるということです。

人間は多くの語彙や情報、またその情報にアクセスする手段をたくさん持っていることから、ついつい自分の脳みそをコンピュータや AI に近いと考えてしまいがちです。

しかし何かを食べるとか何かをやるやらないといった基本的な命令を出すことに限って言えば、限りなくただの動物の一つの臓器でしかないと感じます。

例えば

などです。

こう考えてくると人間が学習をしなければいけないとわかっていながらゲームをしてしまうというのも当たり前のことに思えてきます。

ゲームはルールやクリア条件が定まっていて、それをクリアすれば報酬が確実にもらえます。
しかし 学習において「報酬」というと、例えば希望する試験への合格や、できなかったことをできるようになった実感を得られるのは遥か未来の話で、確実性もありません。

ゲームは、特に最近のソシャゲやオンラインゲームは、脳科学や心理学を駆使して、なるべく長く遊んでもらうとか繰り返し遊んでもらうための工夫が随所になされています。
短いスパンで報酬がもらえ、飽きないような工夫が凝らされています。

従って、他にやらなければならないことがあるとわかっていてもゲームをしてしまうのは当然であると言えます。
強い意志だとか精神論だとかを振りかざしても、人間の脳は確実に報酬がもらえるような行動をとってしまうのです。

「ゲーム欲」に勝つためには、「ゲームの報酬を小さくする」か「学習をもっとゲームに近づける」

しかし我々はゲームだけをしていて良いわけではありません。
勉強をしたりお風呂に入ったり仕事に行ったりしなければなりません。

そのためには大きく二つの方法があると考えています。

一つ目はゲームにおいて得られる報酬を見直し、ゲームの報酬を小さくすること、
もう一つは学習をもっとゲームに近づける、すなわちルールを明確にして、やれば確実に得られる報酬を短い周期で用意することです。

これらについては次の記事で詳しくお話ししたいと思っています。

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