断捨離、しますか?
断捨離するとき、どんな気持ちですか。
ぼくは最近まで、断捨離が苦手でした。
欲求のままに散らかしまくった過去の自分の後始末をさせられているような気持ちでした。
今日の記事は、「才能の純度を上げるために、ADHDのぼくを未来に押し出すこと」「大切な自己投資」であると考えたら、断捨離がすごく楽になったという話です。
ADHDの僕は定期的に断捨離をする必要がある
ぼくは軽率にいろんなものに興味を持ち、いろんなことを試し、そのためにしばしば買い物をする人間であります。
そのため、年に1度くらい断捨離をするのですが、大きいごみ袋5つくらいのものを捨てることになります。
今年のゴールデンウィーク以降も、断捨離をしています。
20代以降ハマった趣味で、今ハマっていないものを、一気に処分することにしたのです。平成も終わったし。
「使わずに捨てるものを買ってしまった」と過去の自分を責めていた
ぼくは昨日まで、断捨離が苦手でした。
「これは処分しよう」と決めるたび、「結局使わずに捨てるものを、過去の自分は買ってしまったのだ」と思うからです。
そのため、断捨離を進めるたびに精神的ダメージを追って、悲しみの中で断捨離をしていました。
「つかわないものをこんなに買ってしまった」と自分を責めるのがつらくなってきたので、考え方を変えることにしました。
「使わないものをこんなに買ってしまった」と責めるかわりに、軽率に買った自分を称えてやることにしたのです。
ものを捨てるたびに「過去の自分、よく軽率にはまったな、ヨシヨシ」と思うことにしました。
すると、断捨離がだんだん楽しくなってきました。
「結局やらないのに物を買った自分」は、責められるのではなく称えられるべき
そもそも、以前はまっていたものを捨てずに持っていることは、精神衛生上あまりよくないことです。
たとえば、買ったままで編まなかった毛糸を「結局編んでないなあ」と思いながら持っているとします。
すると、毛糸を見るたびに、「編もうと思って毛糸を買ったくせに編んでない自分」に悲しくなります。
ここで毛糸を思い切って処分することは、自分に「もう、あの日毛糸を買った自分から解き放たれていいよ」と言ってやることです。
結局毛糸を編まなかった自分を、責め続けるのをやめることです。
自分を許してあげる行為というのは、何であれよいことのはずです。
自分はADHDなのだし、たいしてハマらないものを買ってしまうのは、ある意味当たり前です。
結局やらないのに物を買ってしまったのは、過去の自分が「自分の強みを生かしてしまったから」です。
だから、「結局やらないのに物を買った自分」は、責められるべきではなく、称えられるべきです。
断捨離は未来の自分に場所を用意してやる行為でもある
ものが減ってできた本棚の隙間も、空の引出しも、気分をすっきりさせてくれます。
これだけで気分が良くなります。
予めスペースに余裕があれば、未来の自分が軽率に買ったものの、一時的な保管場所になってくれます。
断捨離せずに、たとえば5月の頭ののぼくがそのままの部屋で編み物にハマったら、ベッドに座って編むしかないですし、
寝るときには編み棒と毛糸は床に置いておくしかありません。
断捨離が終わったぼくが編み物にハマっても、机の引き出しにしまうことができます。
軽率にものにハマるのが得意な自分が、軽率に次のものにハマれるように、余裕を用意してやることです、
こう考えてくると、未来の自分への投資に思えてきます。
「未来の自分のために、場所を空けてあげる」は、なんだかいい気分になりますよね。
断捨離は、過去の自分を称えて、未来の自分に場所を明け渡す行為
断捨離は、過去の自分を称えて、未来の自分のために場所を空けてあげる行為、
そう思ったら、断捨離が自分のための喜ばしい行為に思えてきました。
次に断捨離をしてつらい気持ちになったときには、この記事を読み返したいと思います。