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関白宣言が炎上したのは、価値観が古すぎたのではなく新しすぎたのかもしれないという話

友人たちとゲームをしていて、「出来る範囲で構わないから」みたいな発言が誰かからあがって、「さだまさしの関白宣言、わりとすき」と、何気なく言ったことがあった。
その場にいた友人たちから、「えっ」という反応が返ってきた。
失言だったのだと思う。

関白宣言の歌詞はこんな感じ。

目次

「関白宣言」は歌だ

関白宣言って「歌」だ。

誰かの強がりとか、未熟さとか、そういうのがテーマなんじゃないかと思う。

たとえば、ボヘミアン・ラプソディのメインテーマは◯人ではない。それを聴いたからといって「この人は◯人鬼だ」と思う人はいない。この曲の感想が「◯人はいけないですよね!しっかり裁判で裁かれてほしいと思います」だったなら、QUEENもがっかりすると思う。
あの曲の歌詞に意味をつけるなら、「そういう類の心情」を描いたものだ。だから、我々も、◯人犯でなくとも、さまざまなものをそれに重ねて共感することができる。

関白宣言だって、そういう距離感で受け取ることもできる歌だと思っている。

関白宣言の、個人的な読み方

この歌のキモは、やっぱり後半、曲調がしっとりしてきてからの部分だと思う。
さいごは「何もいらない 俺の手を握り 涙のしずく ふたつ以上こぼせ」という部分。

お願いが、あまりに小さい。
たった涙の雫が2つ。
なんならそれほど悲しくなくても出るような数じゃないですか。
でも、それだけで「いい人生だった」と言うから、思えるから、それだけでいいというのだ。

最初に出てくる「俺より先に寝てはいけない」ってフレーズが、ここで効いてくる。
「君なしじゃ生きられないくらいだから一生一緒にいて」って言いたいんだけど、それを真正面から言うのが恥ずかしい。
そんな人の言う「俺より先に寝てはいけない」なんて、「俺より先に寝ちゃ寂しいよぉ」くらいでしかないのに、そんな言葉を使ってしまう。
それでもすぐに「できる限りで構わないから」って付け足すあたり、強がりきれていないダサさがあって、それがいじらしい。

結局この歌って、「君なしじゃ無理なんだよ」と言いたいのに、カッコつけようとして言葉がねじれて、全然カッコもついていない、そういう歌なんだと思う。

だからたぶん、この「俺」は浮気もしないと思う。
「ま、ちょっと覚悟はしておけ」って言うけど、あれはきっと、そういう男にはなれないくせに、演じてみただけ。「浮気しちゃうかもしれない俺」になってみたかったんだと思う。

「俺より先に寝ちゃダメ」って言葉も、本気の命令じゃなくて、「置いてかないでよ」「一緒にいてよ」って、それくらいの気持ちで言ってるだけなんだろうなと思う。
頼んでるようで頼んでない。
同じトーンで語られる、最後の「俺を置いていっちゃダメ」だって、人間がどう気をつけたからといって守れるものではない。
どうにもならないことだってわかってて、それでも、言いたくなっちゃったんだと思う。

それを、最初に「あれ?ただの命令じゃないぞ?」と思えるポイントが「出来る範囲で構わないから」なのだ。
だから「出来る範囲で構わないから」を、つい「好き」と言ってしまった。

「関白宣言」の本当の問題は、みんながすぐに「非現実だ」と思えないところ

関白宣言を聴いて怒る人たちの中には、まるでこれが「実際にある男性が女性に言った言葉を歌にした」かのように感じて怒る人もいる。具体的にそうでなくとも、そういった忌避感を示す人もいる。
でも実際は、誰かに送る手紙ではない。
歌だ。

西野カナの「トリセツ」を本当に恋人に送った人がどれくらいいるだろうか。
「ボヘミアン・ラプソディ」をカラオケで歌って警察に通報された人はいないし、「山月記」を読んで「虎になりそう」と不安になった人もたぶんいない。

なのに、関白宣言は、なぜかそうは思えない。
「これは誰かが本気で言ったもの」だと感じてしまう人が、一定数いる。
そうでないという視点を持っていても、それでも「本気で言っている人を目にしたかのような避け方」をして近づかない人がいる。

「出来る範囲で構わないから」も素通りして「涙のしずく ふたつ以上こぼせ」にも辿り着かないとか、「たぶん作者が描きたかったこと」に気づいたとしても、怒りのほうが大きいとか、芸術を味わうことを楽しめるほどに怒りが小さくなることがないとかなのだろう。

なぜか。

もちろんそれは、読み手の読解能力のせいではない。

それはきっと、関白宣言はみんなが「非現実」だとすぐに思えないからだ。
それだけ、現実との距離が近い。
気持ちを描いた歌、つまり「印象派」みたいな歌なのに、見た目が「当時実際にいた男の言葉の書き写し」に近すぎるのだと思う。
語り口や言葉遣いのせいで、そして実際にそれがまだ許された時代の中で、今も「流石に許されなくなってきたがまだ差別自体は残っている現実」のせいで、距離感を取りにくい。
ボヘミアンラプソディを聴いたら多くの人は瞬時に「◯人抑止の啓蒙ではない」と思えるし、山月記はみんなが瞬時に「ある日突然虎になる可能性があるから気をつけろ、ではない」と理解できるのに対して、関白宣言はその辺にいそうな男の言葉に聴こえてしまったのだろう。

文学、芸術として心情を味わうには、現実が近すぎた

1979年当時、この歌を聴いて「印象派だ」と思えなかったのは、ほんとうに、こんなことを言いそうな男性が、言う男性が、そのへんにいたからだと思う。
それが笑えなかったのは、その傷がまだ癒えていなかったから、それどころか、日々まだ傷が増えていた時代なのだと思う。

印象派、つまり「印象を伝えるツールとしての歌詞」なのに、見た目が「世にはびこっている、多くの人をいろんな形で傷つける刃物」に見た目が似すぎていたら、自分にその刃物でつけられた生傷があれば、そりゃ反射的に忌避する人がいておかしくないと思う。

性別による不均衡や、押し付けられる役割や、家庭内でのあり方。
その生傷も痛みも残っていたからこそ、多くの人が気づけなかった。
それを許さないほど、つらい記憶が、社会の中にあった。

そして、今でもその傷が完全に癒えたわけじゃないから、反射的に拒否感を覚える人がいる。
それは、その人たちのせいではない。
今もなお続く構造のなかで、そういう反応が出るのは当然だと思う。

だから、自分にもできることがあると思った。
小さいことかもしれないけど、選挙に行くとか、身の回りの差別を見ないふりをしないとか、自分の中にある無意識の差別・偏見・色眼鏡をちゃんと見つめ直すとか。
そういう、小さくて静かな行動なら、できる。

関白宣言は、「こんな価値観、時代遅れだよね」という意味で「時代とずれていた」のではなくて、
「こんな言葉が、当たり前に非現実として受け取れないくらい、現実に根ざしていた時代に出てしまった」という意味で、出た時代が合っていなかったのかもしれない。
むしろ時代を先取りしすぎていたのだ。

悲しいなと思う。

いつか、古典として味わわれる日が来るのかもしれない

いつか関白宣言も、古典として扱われる日が来るかもしれない。
いま読む和歌や古文の中にも、現代の価値観では「ん?」と思うものはたくさんあるけれど、それでも我々は、それをそのまま「文学」として読むことができている。

それはきっと、時間が流れて、芸術として味わえる距離ができたからだ。

関白宣言も、そうなる日が来るのかもしれない。
「こういう時代の過渡期にあってね」「こういう感情を歌にした人がいてね」
そんなふうに、少し離れたところから、ちょっとダサくて、でも人間くさい感情として、やさしく読まれるようになる日が、来るのかもしれない。

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