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うつ病が全快までに10年近くかかってしまった理由と経過 | うつ病には原因があるのかも、という持論

こんにちは、かおるんです。
今日は、20歳ごろ発症したうつ病が全快するまでの10年の経過と、全快までに10年かかってしまった理由をお話ししようと思います。

全快したと思えたのは実は本当に最近で、今年の9月ごろです。
それまでに既に精神的には安定し、社会復帰を進めていました。しかし、数か月前に最後の脱皮(うさぎが…?)を終え、ようやく「自分になれた」感じがします。
病気になる前の自分ではなく、一周回って強化されてきた自分という感じ。

これを書くことによって、自分の戦績を整理するとともに、
もし今、精神的または肉体的な不調に悩んでいる人がいたら、何か参考になればうれしいなと思います。
「10年前に知っておきたかったな、知っていたらもっと早く治っていたかもな」と思うこともお話しします。

注意  1の『10年の戦績を振り返る』が長いので、目次だけ読んで読み飛ばしていただいて、2からお読みいただくことをおすすめします。

目次

10年の戦績を振り返る

年齢はちょろっとぼかして書きます。今はアラサーです。

10年以上前:発症以前のようす

落ち着きのない子でした。活発な子というか。数学とピアノに情熱を注いでいました。
大学では頑張っており、先生がたに可愛がっていただきました。1学年上の授業に呼んでいただいたり、試験も受けさせてもらいました。
他大の教授のゼミに呼んでいただいて『1~4限は大学で授業を受け→50分かけて他大へ→他大のゼミに2時間参加→また大学に戻り→7限の授業に出る』みたいな訳のわかんないことをやっていました。

そんな感じなのにサークル掛け持ちしていて、ピアノサークルの演奏会前は15時間とか練習していました。酷い腱鞘炎になりました。

10年前のXデー~大学卒業 (治療 ~1年目) 休むということが分からない

ある日突然重力が10倍になっていて、大学に行けなくなりました。
うつで倒れた朝のこと。気分が落ちたわけでも死にたくなったわけでもなかった。
(今思うと、最大の原因はアカハラのようなものだったと思いますが、このことは別の記事で書きます。「治療に10年もかかったこと」とはあまり関係がないからです。)

医師から「うつ病なので休んでください」と言われました。
上に書いたように、アクセルしか搭載していない車に乗っていたので、休みかたが分からないどころか、休むという概念がありませんでした。
早く大学に戻ろうとして、少し元気になると数学書を開いていました。うつ病の薬のせいで頭がボーっとして全然読めなくて焦っていました。

市の発達相談支援センターでWAIS-IIIを受け、発達障害傾向が明らかに。今見るとADHDらしい兆候も出ているのですが(言語性IQが動作性IQより17も高い、言語理解が処理速度より31も高い)、当時は主に自閉症スペクトラムの傾向の話をされました。

あと人生で初の大失恋をして、数か月間死にたくてたまらなかった。うつによる希死念慮だったのか、いまだにわかりません。

Xデー以降まともに勉強できなかったけれど、それまで頑張っていた知識で試験を受けて単位をもらって卒業しました。大学院にも入れました。

大学院入学~大学院卒業 (治療2~3年目) 休めないまま卒業

大学院の1年間は大学に行った記憶がありません。というかこの頃の記憶が全然ないです。
大学院2年生の4月にひょこっと研究室に行ったら、みんな就活していて、教授に聞いてみたら「卒業できるんじゃん?」と言われたので、突然就活をしました。
(今思うと)ADHD傾向から説明会や面接の予定に遅れそうになったりして、生活がボロボロに。就活は2か月でやめました。

でも家庭教師のバイトはしていた気がします。実績や指導の丁寧さなどから時給がとてもよかったです。
なるべく事前に出発時間を家族に伝えておき、家を追い出してもらっていました。

大学院卒業~数年 (治療4年目から数年間) 社会に出られなくて悪戦苦闘

大学院卒業後は家にいたのですが、「働かないと、社会に貢献しないと自分の存在価値がない、社会のお荷物だ」という気持ちがあまりに強く、家庭教師の仕事をとりました。
でも、決まった時間に出かけて乗り換え等を間違えずに行くのが大変で、相手に迷惑をかけてしまいそうだったので3月の区切りでやめました。

このへんで「あ、普通には生きられないんだな」みたいな諦めが生まれてきました。
この失望によって、未来への(変な)希望がなくなり、結果的にようやくブレーキを実装しました。

その後~ADHD発覚まで(数年) ブレーキ実装も見栄を張り続ける

この数年は常にブレーキをかけて失望と戦いながら生きていました。
お客さん(生徒および保護者のかた)に迷惑がかからないように、単発や期間限定の仕事だけ取るようになりました。
しかし夏期講習で『19時ごろでかける→23時に帰宅→5時に寝る→16時ごろベッドから出られる→ギリギリで支度』みたいな生活になってしまいました。うつ病になりたての頃の症状と似ており、「夜に仕事をする生活は生活リズムが崩れるので嫌だ」と思い、家庭教師じたいをやめることにしました。
単発で学習相談を提供したりするようになりました。

2016年ADHD発覚~コンサータに出会うまで | 活動量が減り1日が8時間に

ブレーキをベタ踏みしながら生活したことで、ようやく枯渇したエネルギーが戻ってきました。
そのころ発達障害の自分の育て方という本を読み、「自分はADHDでもあるのではないか?」と気づき、医師に伝えたところ、チェックシートや問診からストラテラを処方されました。
ADHDであることが分かったので、部屋のものを減らし、靴下はグレー一色のみに。

脳が静かになりましたが、少し頭が悪くなった感じがありました。(起き抜けでぼーっとしているときのような感じ)
一日の活動量はさらに減りました。感覚的には1日が8時間くらいになり(睡眠時間を含む)、1日が一瞬で終わってしまうので特に何もできなかった気がします。
でも「時間どおりに出かけるのが大変」という困り感が解消されたことはとても大きかったです。
「頭が回らなくても、少しずつしかできなくても、少しずつでも社会に価値を提供していけば、自分は社会のお荷物ではなくなることができるのではないか」と思えた瞬間でした。

2019年10月~ コンサータを飲み始めて1日が14時間になる

ストラテラを飲み始めてから、脳みその中は落ち着いたのですが、
活動量が減ったためにアウトプットが非常に少なく、そのため自己肯定感の低下で心がしんどかったです。

活動量を増やしたいと思って調べていて、コンサータも飲んだほうがよいのではないかと思うようになりました。
医師に相談し、処方してもらいました。
ここでようやく、1日が14時間くらいになりました! YouTubeに動画を上げたりブログを書いたりの頻度も上がりました。

2020年9月~ 運動と学習の両輪が回りだし、1日が20時間以上に

感染症をうつすわけにはいかない親族がいるため、家に引きこもることになりました。運動をしないとまずいので、Fit Boxing(Switchのボクササイズゲーム)を始めました。
運動をしたらその分たんぱく質を多く取る必要があり、頑張って食事を多めにとるようになりました。たんぱく質とリズミカルな運動によってセロトニンも分泌され、かなり元気に。

医師に「最近元気だし、ちゃんと(まとまった時間)働きたいなあ」と言ったところ、「勉強は好きでしょ、そういうのはどうなの」と言われ、
「そっか、今だからこそオンライン家庭教師のインフラも充実したじゃないか」と思いました。医師の勧めにより高校数学の問題集を解くことに。

実は高校数学のこまかい公式はかなり忘れていましたが、導く方法は覚えていたので、自分で導いたりしました。

学習を始めるまでは「自分はあの頃のような優秀な人間には戻れず、老いていくのだろうなあ」と思っていたのですが、
だんだん「やればできる、覚えていることもちゃんとある、あの頃以上の自分になれる、今そうなっている最中なのだ」という気持ちが湧いてきました。
運動も学習も、定期的に負荷をかければちゃんと伸びていって感動しました。

朝に問題集を解くとか前日の復習をするとかいったことで、幸福度が上がってパフォーマンスが上がり、
あれもこれも学びたい、じゃあもっと生活のルーティンを効率化して体力もつけたい、と思うようになりました。
発症してから10年、初めて自分の前に上り坂が見えました。

もう無理はしないし、Xデー以前のようなめちゃくちゃなこともしないけれど、それでも、あの頃と同じような「あれもしたい これもしたい もっとしたい もっともっとしたい」という気持ちになりました。
そう思えたことがとてもうれしかったです。元々はこういう気質の人間なんだと思います。

結局、なぜ10年もかかったのか

うつの症状のためにADHDの傾向が引っ込んでいた

これが最大の要因だと思います。

『発症→ブレーキ実装→休んだことで活動量が増えADHDの傾向が出はじめる』ところに、とても時間がかかってしまいました。
WAIS-IIIを担当してくださった方にも、主治医にも、文句を言うつもりはありません。
WAIS-IIIの担当者にも「これは鬱状態で、かつ抗うつ薬を飲んだ状態での結果だから、あなたの脳の傾向とイコールではない」と言われています。

ASD(自閉症スペクトラム)傾向に悩んでいたことも大きかったと思います。
ASDというものを知った時から「自分はASDっぽいな」と思っていました。先生や先輩に(誤解からですが)「性格直したほうがいいよ」って何度も言われたので、そのショックが大きかったです。結果、心をバキバキに折られた経験から、PDCAを必死に回してフローチャートを作成してきたので、今はそんなに困っていません。
さらに大学で数学科に行ったら、論理しか喋らない(真顔でも視線が合っていなくてもお互い気にしない)人がたくさんいて目立たなくなりました。
それでも、中高時代の経験からASD傾向の対策にばかり目がいき、自分がADHDだとは疑ってもいませんでした。

ちなみに、中高時代まではADHD傾向が出にくかったです。
小学校までは親が選んだものを着て、朝のルーチンも親と一緒だったし、中学は制服、三食とも母の作ってくれた食事をとっていました。携帯も禁止で、気の散りようがなかったのです。

休むことを知るまでに時間がかかった

これはもう、自分の性質であるとしか言えません。
いつから頑張っていたか覚えていません。無駄な時間は1分も作りたくなかった。物心ついたときから、そうでした。
小学校のときも1分でも休み時間が余ったら折り紙を折ったりしてました。前回より少しでもうまく、まっすぐ、ゆがみなく折れるように。
中学に入ると「10秒でもあれば単語帳を開きたい」になっていきました。

あのままブレーキなしで生きていたらそろそろ体調を崩していたんじゃないかと思うので、ブレーキは実装してよかったなと思います。

格好をつけ続けていた

これも上の項目と似ています。
「今は正々堂々休んでいます」と言えたのは、最初の3日くらいだけです。
あとは、早くなんとかしたくて、勉強も仕事も何かしないと不安でした。

周りに「うつ病だから今は休んでて家にいるんだ」って、1回も言わなかったし、言えなかったです。
あと、そういう自分が許せなかったので、実際に仕事を探したり取ったりしていました。そして全然稼げなくて、また焦っていました。
心も身体も、全然休んでいなかったです。

今思うと、ちゃんと休まないといつまでもちゃんと治らないです。
ブレーキを実装して以降の「休む>活動」となっている区間を足し合わせて、ようやく規定量に達したから、元気になり始めたんだと思います。

うつ病になる原因や治る原因があると思っていなかった

わたしのうつ病の場合ですが、原因は複数あったものの、それをひとつひとつ解決することで、うつの症状も改善していきました。

  • ちゃんと休む
  • 服薬
  • トリガー(アカハラ)に気づき、その要因に対しては自分は悪くなかったと理解する
  • 合わない環境から離れる
  • 認知のゆがみと向き合う(「社会に価値提供していないといけない」とか思っていた)
  • 発達障害の二次障害である場合は服薬や工夫などの対処をする
  • たんぱく質(トリプトファン)やビタミンB6、日光やリズミカルな運動などによりセロトニンの生成を促す
  • 生活のリズムを作る、崩れた時の立て直し方を知る
  • 自己肯定感の回復

わたしの場合はこの9点です。
これをすべて終えたら、なにも頑張らなくても、症状が出る前の自分のような

  • 毎日朝起きて、昼間用事をしたり運動したり趣味をして、夜に寝る
  • 何かを「やってみたいな」と思うことがある
  • 100m走を何本も走り続けてるみたいに追い詰められていない
  • 「何か一発逆転しないと自分の人生は無価値」とか思わない

こんな自分になりました。

うつ病が治ってみて思うことは、人間の身体や脳(精神状態を含む)は、意外と化学的または物質的だなということです。主観ですが。
「材料を用意して、こうやって混ぜて熱したらこの物質ができますよ、この物質は人体にこんな影響を及ぼしますよ」というような感じです。

最初はもちろん休むことが必要ですが、だんだんと「原因はあっただろうか?」「自分に合わない環境にいなかったか?」「こうだったらもっと楽だったなと思うことはあるか?」「発達障害傾向はないか?複数もっている可能性はないか?」と考えていってもよかったと思います。
大きな原因がある人もいると思いますが、わたしは小さな原因がいくつもあったタイプでした。ひとつひとつ対処していくごとにできることが増えていきました。

うつ病になったことにも、回復に10年かかったことにも意味があると思っていますし、基本的に後悔はありませんが、
過去の自分にひとつだけ言えるとしたら、「原因がひとつかもしれないし複数かもしれないけど多分あるから、見つけたものから少しずつでいいから改善策を何か試してみてね。全部見つけられないかもしれないしそれで全快するかはわからないけど、症状は少しずつ軽くなると思う」と言いたいです。
もし、うつ病の治療を長くしていて、社会に戻りたくて悩んでいる人がいたら、わたしはこれを伝えるだろうと思います。

アカハラ(アカデミックハラスメント)だったと気付くのに時間がかかった

当時はアカハラという名前も知りませんでしたし、その名前を知った時にも、自分が受けたのがアカハラだとは思いませんでした。
(具体的な内容は別記事に書きます。)

自分が数学ができないから、教授に怒られているんだと思っていました。
自分が頑張れないから、もっと頑張らなくちゃいけないと思っていました。

(正しく)諦めることに時間がかかった

アカハラであることに気づいていなかったので、自分が落ちこぼれたように感じていました。
日本の大学の数学科じたいが自分に向いていないことを悟り、「だから自分は大学で研究する人にならないのだ、ならなくてよいのだ」と積極的に選択するまでにはさらに時間がかかりました。

また、同学年の人は社会に出て外資コンサルやシンクタンクでバリバリ働いていて、そういう人になれないという劣等感も大きくありました。
いま考えると、なんでこんなことで劣等感を感じていたんだろうと思うのですが、こんな感じで10年近く経ってしまって、もうどう頑張ってもひっくりかえせないと腹落ちするまではずっと苦しかったです。

そういう会社に入っていたり、大学にいたりしたらできなかったことを、これからたくさんやっていきたいです。
これは、「そういうところに行けなかったから、あえて別のことをする」ということではなくて、
10年間でたくさん考えた結果、自分に向いていることや本当にやりたいことは別のことであり、そしてそれは、そういう会社や大学ではできなかったことである」という意味です。

今後のはなし

今後は、

  • 学んだことをネット上に残していくこと
  • 再発を防ぐこと
  • プチ鬱みたいな症状をなるはやで観測して処置を行う

ことを続けていきます。これは一生続けます。

再発の確率を下げ続けたいし、
今もプチ鬱に対処するフローはありますが、一生改善し続けたい。
より早く元気に戻れるように。

そして少しでも多くの情報をネットに残したいです。それぞれ抱えているものは違うし、環境も違うだろうと思うので、参考になる人の目に入ればいいなと思います。

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